京都楽天堂高島千晶さんとの往復書簡より
その2
千晶さん
倉吉には、起業する方とお店を始めてばかりの方にアドバイスをする、という役目でいったのですが、帰ってから報告書を作っていて、なんだ、これって、わたしが何時もやっていることじゃない、と改めて気がついたのでした。
SORAに問い合わせくださる方は、今からお店を始めるという方や 小さいお店をやっている女性が多くて、取引の前に、何度かメールのやり取りをして、お互い、一緒にやって行けそうだったら、お付き合いが始まるのですが、その後も先輩としてアドバイスすることも多いのです。
千晶さん曰く、<人の商売にアドバイスしているようで書いているのは自分の経営哲学みたいなもの。>
まさに、そうなんですね。アドバイスしてるようで、伝えたいのは自分の考える商売のありかた、みたいなものですから。
わたしは自分が売るものは わたしの表現である、と思ってきました。
自分が売るものは、自分の考えを伝える メディアでもあると。
だから、ものを通じて、ひとと繋がれる、共感しあえる喜びがあります。
私にとっての“商売の楽しみ“は、これが一番ですが、お店を成り立たせるためには、現実的な運営、品揃えや在庫管理など、手を抜くわけにはいかない諸々の仕事をこなさなくてはなりません。
でも、やりたいこと、納得できることをやっている限りは、そういう仕事も苦にならないし、リスクも引き受けられる。うまくいくように工夫したり、アイデアが浮かんだりするから、やりがいもあるし面白くもある。
そういうことを考えていたら、40年も前、私がお店を始めてオープンした頃のことを思い出しました。
お店を始めるまでのこと。西荻でやっていたお店のこと。
どういう働き方をしたら、納得できるのか、ということを真剣に考え始めたのは、会社にいってた頃です。
50年も前ですから、卒業したら就職するのは当たり前と大手の企業に勤め始めたのだけれど、やっぱり絵の勉強がしたくなり退職して東京に出てきました。当時の感覚では、ニューヨークに行くくらいの大決心。こつこつ貯めた貯金も、東京ではあっという間に減っていったので、心配になってまた就職。
今でもテレビで幅をきかしているような大手繊維会社でしたが、いろいろあって、すっかりやる気をそがれ、モチベーションも下がったまま、給料をもらうためだけにいやいや仕事をしていた時期があって、つくづく、これって自分自身にとっても、会社にとっても無駄だなあ、と思ってやめたのでした。
それでも合計5年以上は、会社勤めを経験しています。
仕事が不満だと、どんなに給料をもらっても、引き合わない気がするんですね。
でも、会社にとっても、社員に十分力を発揮してもらえないのは、大損でしょうに。
会社を辞めて、フリーのイラストレーターとして仕事を始めたんだけど、これも当然ですが、なかなか一人前には稼げない。そのうち、子供たちが生まれて、締め切りのあるイラストの仕事を続けていくのがむつかしくなったので、しばらく仕事をしなかった時期があります。
子育てに専念して、それを楽しめたらどんなによかったろうと、今にして思いますが、当時は全く情報がなかったし、話の合う同じような立場の人もいなくて、私は社会から切り離されてしまったような、どこにも繋がっていないような孤独を感じていました。あの頃は、人生で一番孤独だったと思います。
頼りにしていた母は、その頃、原理主義のキリスト教に傾倒していて、今までとは別人になっていたし、それまでは、何でも一緒にやってきて、親友だと思っていた夫は子供ができても全く変わぬ様子で、出かけたり、遊んだり、仕事をしているのに、私の生活は一変してしまったのです。
自分の生きる道を探しながら、もがいていました。
だから、自分で自分だけの仕事を作ろうと思った最初の動機は、こどもたちがいたことです。
こどもがいても、家でマイペースでやれる仕事として、アクセサリーを始めたのでした。皮なのに、七宝焼きに間違えられるような手法を考えついて、それでポップなアクセサリーを作りました。運良く、時代は手作りブームで、今から考えるとあり得ない感じで、営業もしないのに飛ぶように売れて、十分にそれでたべられるようになったのです。
あのまま、卸しだけでやっていたら、ビルが建ったかもしれません。(冗談)
その頃、たまたま 駅の近く、大通りに面した郵便局が引っ越して空き家になったのです。
昭和初期風のアンティークな建物で、私たちは以前から気になっていた場所でした。第一次石油ショックの頃で、ビルを建てるという大家さんを、今時ビルを建てても、と説得して、そこを借りることができたのです。
今から思うと、そのことが、その後の私たちの人生にも、西荻の町のあり方にも、おおきく影響することになったのでした。
場所がよいので、仕事場だけじゃもったいないと言うことになりました。
お店をやろうよ、と。
でも、手作りアクセサリーの店なんて、当時は、結構、トレンドではあったのですが、私としては全く乗り気になれなかったのです。
どうだったら、ノれるか。
なんか、もっと新しい生き方につながるような、あたらしい価値観を発見してもらえるような、今まで見たことないようなそんな店だったら、やってもいいかな、と思いました。
自分の生き方と矛盾しないでお金を得る方法はないものか、とずっと探していたから、このお店から、私たちの価値観、オルタナティブな生き方などいろいろと発信できるんじゃないか。
で、結果的には、そういう店をやったのです。
なにを売ったかというと、人が見過ごすようなもの、見捨てられているようなものを、です。仕入れ先は専門の問屋ではなく、寂れた田舎の金物屋さんの売れ残りの水筒とか、町工場に転がっていた在庫品とか、問屋のデッドストックとか。お店に置くと、全く違う見え方になるのが快感でした。
作業着屋さんで仕入れた作業着や靴下をを染めてみたり、どこかの縁の下から見つけた古い印判のお皿や電気の傘を売ったり、今で言う雑貨屋(かな?)、アンティークやリサイクル品、手作りの洋服やバッグ、木のおもちゃ、自分たちが興味があるものはなんでも置いてある、ある意味セレクトショップだったのです。
最後っ頃は みんなに読んでほしい本とか、無農薬の野菜まで置いて、それがほびっと村の本屋や八百屋に繋がります。
東急ハンズがない頃だったけど、ハンズのように道具や材料を売って、ワークショップもやっていたので、お客もスタッフも渾然として、すごく楽しかったものです。
その頃、わたしもこういうどっちかというと無駄なものを売っていることに矛盾=消費社会に批判的でいるのに、お店でものを買わせている=を感じていたことがあります。詩人とか、せめて八百屋だったら、こういう矛盾を感じないですむだろうに、と。
でも、今はこういう無駄こそ大事だったのではないか、魅力だったのではないか、と思っています。
今の世の中は、きれいで効率的なことばかり優先されているので、なんだか入り込む余地がないかんじですもの。
お店の新聞を発行したり(73年当時の私たちの新聞に、すでに温暖化のことが書いてある)、近所の空き地で野外ロックコンサートやフリーマーケットやお祭り(これも、その後のいのちの祭りに繋がっています)もしました。
前例がなかったので、近所の人たちも面白がってくれ、協力的でした。
店の裏には台所やこども部屋(というには狭かったけど)もあって、自分たちのライフスタイルに合わせた働き方ができました。
ただし、小売店というのは、経済的にすごくきびしい、ということも身にしみました。在庫もいっぱいだったし、頭が痛かったことを思い出します。
経済的には、メーカーとして、卸しをしていた頃とは雲泥の差でした。楽しかったから、やって行けたようなものです。
その後、そこを拠点に、仲間に呼びかけて南口にほびっと村ができました。
村といっても4階建てのビルなのですが、このビルの持ち主から、私たちの店に「あなたたちだったら、楽しい場所にできるんじゃないか」と話が来たのです。
70年代のほびっと村は、1階が元ヒッピーたちの無農薬八百屋(山尾三省もここのメンバー)と私たちのジャムハウス、2階は、べ兵連などの運動系のほんやら洞、3階はオルタナティブな本屋と「やさしい革命」の編集室、いろんな自主講座やワークショップが目白押しのほびっと村学校で、当時のカウンターカルチャーのメッカの様相を呈し、毎日、大勢の興味深い人たちが出入りしていて刺激的だった。とても、70年代的でした。
ここの樹裸衣という女性たちの自主講座を母体に、まだまだ不自由な働き方しかできないでいる女性たちが 主体的に働ける場を実現するために 無農薬野菜や安全な食材をつかって食事を提供するレストラン「たべものや」をオープン。
食べ物を通じて、また自分たちの働き方を通じて、もう一つの考え方、生き方を伝えていきたかったのです。
でも、まず、一番大事にしたかったのは、自分たち自身の嘘をつかない生き方とナチュラルな関係性だったかも。
「たべものや」は今でいうワーカーズコレクティブという経営形態で、自分たちにとって違和感ない独自の運営をしていたのだけど、12年後のバブル時、やっぱりビルを建てる、という大家の要求で、閉店することになります。
ここでの経営は、また独特だったのですが、長くなりそうなので、又の機会に。
みんな、そろそろ他の分野で仕事をしたくなっていたので、場所を移して続けることはかんがえませんでした。
その後の数年は、今思うと、人生の夏休み。
アクセサリーを作って、お店に卸したり、クラフト展や個展をしたりでお金を稼ぎながら、アジアやアメリカをうろうろしたり、、、こういう自由な時間がたっぷりあると、たくさん友達ができるのですね。
クラフト関係やアーティストなど、お互い時間がある同士だと、お金がなくてもいろいろと楽しく遊べるんです。
<ボディクレイに関わって。>
しばらくして、粘土科学研究所に関わるようになるのですが、夏休み的生活を諦めたくなかったので、ちょっと手伝うくらいな気持ちで始めたのでした。
ただ、手抜きできないたちということもあるけれど、ねんどが面白くて、どんどんはまっていったのです。
それに私は 仕事するのが好きなんですね。きっと。