2010年9月20日月曜日

天然生活11月号に

 今発売中の、『天然生活』11月号に掲載されています。


家しごと、「ていねいに」と「かんたんに」

このテーマは私には全然合わないとお断りしたのですが、断る電話をしているうちに、なんだか私でもいいような感じになって、受けてしまいました。


自覚としては、怠け者で、手抜きばかり、と思っていたけれど、楽するためのこだわりや美味しいものを作るこだわりは、もしかしたら、人並み以上なのかも、、、と改めて感じたことでした。


ボディクレイは怠け者や手抜きしたい人にぴったりのスキンケアだし(でも、効果は多分他のどんな化粧品にも負けないでしょう)、キッチンスクレーパーと竹布の布巾をつかう洗いものは、洗剤や石けんなしで、楽して簡単に洗いものができるし、、、


私が開発してきたものも、まさに「かんたんに」というのにぴったりだったんです。


「かんたんに」と「ていねいに」はむしろ両立するから、わたしでも、まんざら人選まちがってなかった?かも。


それより、びっくりは我が家の圧力鍋が表紙に使われていたことです。使うかも~とは聞いていたのですが。


以下、わたしのtwitterにつぶやいたこと。

40年近くうちの台所で 健気においしいご飯をつくってきたお鍋。

取材の時、はじめて写真に撮られたと思ったら、思いがけなく表紙になって本屋さんに並ぶなんて。


ご苦労様、晴れ舞台だねって感じかな。

お世辞にもきれいじゃないけど、うちにはお似合い。


今月の『天然生活』には7周年記念の付録がついてます。中川政七商店の花布巾。

前々から素敵、と思っていて、買ったこともある。


それに、プレゼントに応募したら、ボディクレイの入浴剤があたるかも。

http://www.chikyumaru.co.jp/tennen/


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商売の楽しみ その4 らくてん通信より

千晶さんの書簡、とても面白く楽しくよみました。


やっぱり、動くと思いがけない人にあったり、面白いことがおきるものですね。

今回の千晶さんの旅のはなし、なんか懐かしい感じ。

青春18切符やヒッチでの移動、夜は知り合いの知り合いだったりする初対面のお家に泊めてもらったりして、、、わたしも昔はよくそんな旅をしたので、色んな出会いを思い出してしまいました。

さすがに今は、もう、あんな元気な旅はできなくなってしまった。

千晶さんには、この調子で日本各地にでかけて、また面白い報告を聞かせてほしいです。


今年の夏休み、私の方は、飛行機と新幹線で鳥取、岡山方面へ。

2月は私だけだったので、連れ合いのじゅうべーもいっしょに行けたら、と思っていたので今回は一緒です。


せっかく来るんだったら、ということになって、鳥取でワークショップ、倉吉では若い農家の人たちとの集まりにでることになりました。


鳥取の水越屋さんは、2月に千晶さんや日下部さんと行った最初の豆ランチパーティ以降、毎月ランチパーティを続けておられるそうで、私は、<ねんどできれいになろう。>というテーマで、ねんどの話とオルタナティブな使い方を。

ねんどはもともとおどろきの素材なので、色んなびっくりの話があるから、関心がない人にも、興味を思ってもらいやすいのです。オーナーの和田さんはじめ、みなさんが興味津々だったので私も楽しかったです。


ここの豆ランチパーティの料理は全部お店の人が作ってくれていて、種類も量も多くて、食べきれないほどでした。それと会費が考えられないくらい安い。

いい会だったし、お店も順調そうで一安心だったのですが、それがちょっと心配でした。つまり、サービス良すぎ。

私的なシーンでは、気前の良い人は、けちじゃないと言うことでみんなの人気者になるかもしれないけれど、商売の場面のツーマッチなサービスは むしろマイナスだろうと思うのです。きびしい見方をすれば、サービス過剰は、商売としての自覚と自信が不足しているとも言えるから。

少なくとも、料理の量は、次回からはすこし少なめにした方が、また食べたいって気になるよ、とアドバイス。


翌日の倉吉では若い農家の人たちとの話し合いが企画されていて、またまた大勢の人に会うことができました。


農業に関しては、私は消費者の立場でしかないけれど、東京では いまや有機や無農薬の野菜を扱う店や日曜市、ファーマーズマーケットが当たり前みたいにある、無施肥の農産物だって珍しくない。と言う話をしたら、彼らが驚いたことに逆にびっくりしました。

考えてみれば当然だけど、今の時点でも、試行錯誤しながら有機農業に切り替えようとしている人たちがいるわけで、彼らにとっては、30数年前、西荻・ほびっと村に初めての無農薬野菜の八百屋ができた頃の話は、昔話ではなく現実的な今の問題としてとても関心があるようでした。野菜やお米の流通をどうするか。


うちに帰ってから、長本兄弟商会のナモがかいた「みんな八百屋にな~れ」(就職しないで生きるには、シリーズ・晶文社)を本箱から引っ張り出して読み返してみました。

インド帰りの三省とカリフォルニアから親子3人で帰ったばかりのナモがお酒を飲みながら盛り上がって、話のはずみで やろうときめた無農薬の八百屋。

無農薬の野菜を作ってる人も殆どいない頃のはなし。

全くの素人、その上文無しだった二人が 無鉄砲に、その夢を実現させていく奮闘ぶりは、今読んでも面白い。

当時はこんな夢みたいなことをあまり迷わずやろうとする人たちが多かった気がします。自分たちが思い描く未来がいつかやってくるような、どこか楽観的な気分だったからでしょうが。


都会では今や無農薬野菜も色んなところで手に入れることができます。

日本は狭いし、TVや新聞で同じレベルの情報が日本中に行きわたっているから、うっかりすると同じような生活をしているような気になるけれど、違うのですね。


倉吉でも、その後行った岡山でも、昔のほびっと村みたいなスペースを作りたい、といってる人がいて、なるほどなあ、と思いました。


それぞれが点在するより、志が同じ仲間が集まって共同でそういう場=八百屋や食堂や本屋や学ぶスペースがある=を作るのは、人が少ない田舎であればあるほど求心力ができていいかもしれない。


倉吉もその後たずねた総社も 風情があるとても美しい町並が残っているんだけど、驚くくらい空き家だらけ。なんとかできないかと思うけれど、個人ではなかなか難しそうです。

小沢さんの政策をききながら(民主党の代表選の演説で、地方に財源を移行して活性化するという)手遅れにならないうちに、早く何とかしてほしい、と思っています。


総社の町の、空き家が並ぶ昔の商店街の一角で、昔 隣に住んでいた'とろん’がお店をやっています。両隣は空き家だし、人通りも殆どありません。

暑くて、冷房もないのに それでも、毎日色んな人が訪ねて来ます。

かき氷とカレーやチャイのほか、友人たちが作った何やかや、いろんな雑貨が置いてありますが、みたところあまり売れそうでもなく、多分すべてのお客は、要するに彼らに会いに来ているんです。

家賃も殆ど掛からないし、彼らは、普通だったら遊びに来るだけの人が、お店のお客にもなってくれるなんてラッキーと思ってるに違いない。


お客は商品を買いに来るんじゃない、やってる人にあいに来るんだ、とは昔からよく言われてると思うけれど、彼の店は文字通りそのまんま。


もともと少しの現金で楽しく暮らす名人だから、全然困った感じではないんだけど、子供の保育料の話を聞くと、さすがに、わたしも短期的利益をだすアイデアを提案したくなってしまう。


みんなの役に立つような消耗品で、なくなったらまた買いに来たいようなもので、あなたが気に入ってるものを置いてみたらどう、とお節介を焼きたくなってしまいました。


今回の旅でみたものは、今の私の周りや東京では見えないようなものだったので、興味深かったです。


千晶さん、わたしも小売りをやっていた時は、いつもぎりぎりだったから、えらそうなことは全然いえないんですよ。わたしも同様に説得力ないと思います。


何度も同じことを言ってると思うけれど、小売りは経済的には一番きびしいパートです。でも、個々人のお客との関係を楽しめる一番面白いパートでもある。

工夫のし甲斐もあります。

2010年6月28日月曜日

商売の楽しみ その3 (らくてん通信より)

 京都楽天堂高島千晶さんとの往復書簡より。その3


千晶さん、商売について改めていろいろ考えるのは、楽しいです。

こういう機会をありがとう。


わたしも千晶さん同様、仕事の選択肢がこれしかなかったということだろうと思います。

 でも、小さな選択の積み重ねの結果、これに行き着いているわけだから、選んだ、とも言えるでしょうね。


この間、ツイッターで、「自分の生き方と矛盾しないいでお金を得る方法はないものかと探していた」というところを千晶さんが紹介してくれたら、“そう思って会社を辞めたけれど、今は「生きるためなら何でも翻訳します」という状態に近い”という返信をくれた人がいます。


わたしも、子供が生まれる前にやっていたイラストレーターをあのまま、やっていたら同じような状況だったと思います。

 友人にカメラマンや、イラストレーターやライターその他、すごく有能で、立派なキャリアもあるのに、依頼がこなければ、仕事がない。

 基本的に待ちの仕事なんですね。営業が下手で、マネージャーもいないとなると、活躍できなくてすごくもったいない。経済的にもなかなか大変そうです。


先号のハミルトン純子さんのアイルランドの税金事情を読むと、高い税金をとられるけれど、ある種の芸術家には所得税が課されない、と。

日本の文化度を上げるためにも、ベーシックインカムは導入されるべき。とリアルに感じます。


  話が脱線してしまいました。


それに比べると、ものを売る仕事は、わかりやすい。お金を得る一番原始的な方法だろうと思います。わらしべ長者ってまさに商売の話ですものね。


自分で売る場所や時間を決めて、自分で選択した商品を売る。

相手は世間の最前線にいる個々人です。買おうが買うまいがお客も自由。

そういうお互い自由な関係のなかで、どちらもが満足できる売り買いが成立できるんだったら、なんといい仕事でしょう。

考えてみると、自分がやりたいようにできる一番自由な仕事かも。


大資本の大規模店におされて、全国にシャッター街が増えている状況でこんなこというのは、脳天気に聞こえるかもしれないけれど、むしろこんな時代だから、商売の基本を忘れないで、お互いに個人的な関係を作っていける小さいお店にこそ、希望を感じています。


30年も前の話ですが、子供ができて、マイペースで出来るアクセサリー作りをはじめたのだけど、うちのアトリエでは手狭になり、西荻の元郵便局を仕事場に借りることになり、場所がよかったので、成り行きで、お店をやることになった 経緯は先号にも書きましたが、これが、わたしの「商売ことはじめ」でした。


お店をはじめて、びっくり。想像以上に、面白いなぁって。

お店というみんなに開かれたスペースがあれば、そこで何をやってもオーケー。やりたいことは何でも出来る。売りたいものは何でも売れる。それに、こちらの発信に応じて、いろんな人が来てくれる。(なんか、ツイッターに似てる。)


それに、実は人見知りで、知らない人に自分から話しかけるのは苦手だったのに、お店に来る人には、全然平気で話しかけられる。

お店の人という立場がはっきりしているからだろうと思います。


売るだけではなく、店先でお客に作り方を教えながら、一緒にものをつくったり(今で言うワークショップ)して、お客も、お客だか、店のボランティアだか、友達だか、という感じで毎日楽しかったものです。


ーー70年代、フラワーチルドレンの時代だった、ということもあるけれど、今 思い返すと、まだ商売の素人で、楽しいことばかりに気をとられていたのかも。


経済的にはとても厳しかったのに、お金のことは全くといっていいほど気にならなかったのは、やはり、時代のせいだったかも。

閉塞感のある今の社会とは違って、きっといい未来が拓けるだろう、と感じていたから。(直に幻想とわかりますが)

儲けを第一に考えたことは一度もないけれど、その後のたべものやの12年間では、時代の変遷もあったし、自分たちのやりたいことをやり続けていくために、ずいぶん鍛えられたと思います。ーー


脱線その2.今では考えられないけれど、町で黒い服を着ている人がいなかった時代です。

その後、どっと黒い服を見るようになるんだけど。


5,6年前、初めて千晶さんに会ったとき、京都に引っ越してすぐ、まだ荷物もほどいてない時、イラクで戦争が始まって、いても立ってもいられず 家の前に豆を並べて売った、という彼女の話に、とても共感したのです。


バブルの頃、立ち退きで「たべものや」をやめてから20年以上経っていましたが、やっと、後に続いてくれる人を見つけたような、嬉しい気持ちでした。


私も、店のやり方や商品を通じて、伝えたいことがありました。

私にとって、お店は、メディアである、というくらいの気持ちだったのです。


昔、士農工商とかいって、商売が貶められていたからか、商売=金儲けくらいのイメージしか持ってない人がいて、無意識にだろうけれど、ずいぶん差別的、と感じることがあります。


「売り手よし、買い手よし、世間よし」で、有名な近江商人は、商売人としてすばらしかったと思うんだけど、一方で、身分が低いのに、こずるく金儲けしやがって、、というやっかみ半分の悪評もうけていたそうで、商売を見くびるような見方は、そのつづきなのでしょう。


 実際、なりふり構わず、儲けに走る人がいるのは確かだけど、何事につけ、NOと言いたいようなネガティブな面に目をこらすより、こうあってほしい、こうありたい方向を見て、小さくても自分で実践していく方がきっと近道なんですよね。

商売の楽しみ その2 (らくてん通信より)

 京都楽天堂高島千晶さんとの往復書簡より

その2  


千晶さん


倉吉には、起業する方とお店を始めてばかりの方にアドバイスをする、という役目でいったのですが、帰ってから報告書を作っていて、なんだ、これって、わたしが何時もやっていることじゃない、と改めて気がついたのでした。


SORAに問い合わせくださる方は、今からお店を始めるという方や 小さいお店をやっている女性が多くて、取引の前に、何度かメールのやり取りをして、お互い、一緒にやって行けそうだったら、お付き合いが始まるのですが、その後も先輩としてアドバイスすることも多いのです。


千晶さん曰く、<人の商売にアドバイスしているようで書いているのは自分の経営哲学みたいなもの。>

まさに、そうなんですね。アドバイスしてるようで、伝えたいのは自分の考える商売のありかた、みたいなものですから。


わたしは自分が売るものは わたしの表現である、と思ってきました。

自分が売るものは、自分の考えを伝える メディアでもあると。

だから、ものを通じて、ひとと繋がれる、共感しあえる喜びがあります。


私にとっての“商売の楽しみ“は、これが一番ですが、お店を成り立たせるためには、現実的な運営、品揃えや在庫管理など、手を抜くわけにはいかない諸々の仕事をこなさなくてはなりません。


でも、やりたいこと、納得できることをやっている限りは、そういう仕事も苦にならないし、リスクも引き受けられる。うまくいくように工夫したり、アイデアが浮かんだりするから、やりがいもあるし面白くもある。


そういうことを考えていたら、40年も前、私がお店を始めてオープンした頃のことを思い出しました。


お店を始めるまでのこと。西荻でやっていたお店のこと。


どういう働き方をしたら、納得できるのか、ということを真剣に考え始めたのは、会社にいってた頃です。

50年も前ですから、卒業したら就職するのは当たり前と大手の企業に勤め始めたのだけれど、やっぱり絵の勉強がしたくなり退職して東京に出てきました。当時の感覚では、ニューヨークに行くくらいの大決心。こつこつ貯めた貯金も、東京ではあっという間に減っていったので、心配になってまた就職。

今でもテレビで幅をきかしているような大手繊維会社でしたが、いろいろあって、すっかりやる気をそがれ、モチベーションも下がったまま、給料をもらうためだけにいやいや仕事をしていた時期があって、つくづく、これって自分自身にとっても、会社にとっても無駄だなあ、と思ってやめたのでした。

それでも合計5年以上は、会社勤めを経験しています。


仕事が不満だと、どんなに給料をもらっても、引き合わない気がするんですね。

でも、会社にとっても、社員に十分力を発揮してもらえないのは、大損でしょうに。


会社を辞めて、フリーのイラストレーターとして仕事を始めたんだけど、これも当然ですが、なかなか一人前には稼げない。そのうち、子供たちが生まれて、締め切りのあるイラストの仕事を続けていくのがむつかしくなったので、しばらく仕事をしなかった時期があります。


子育てに専念して、それを楽しめたらどんなによかったろうと、今にして思いますが、当時は全く情報がなかったし、話の合う同じような立場の人もいなくて、私は社会から切り離されてしまったような、どこにも繋がっていないような孤独を感じていました。あの頃は、人生で一番孤独だったと思います。


頼りにしていた母は、その頃、原理主義のキリスト教に傾倒していて、今までとは別人になっていたし、それまでは、何でも一緒にやってきて、親友だと思っていた夫は子供ができても全く変わぬ様子で、出かけたり、遊んだり、仕事をしているのに、私の生活は一変してしまったのです。

自分の生きる道を探しながら、もがいていました。


だから、自分で自分だけの仕事を作ろうと思った最初の動機は、こどもたちがいたことです。

こどもがいても、家でマイペースでやれる仕事として、アクセサリーを始めたのでした。皮なのに、七宝焼きに間違えられるような手法を考えついて、それでポップなアクセサリーを作りました。運良く、時代は手作りブームで、今から考えるとあり得ない感じで、営業もしないのに飛ぶように売れて、十分にそれでたべられるようになったのです。

あのまま、卸しだけでやっていたら、ビルが建ったかもしれません。(冗談)


その頃、たまたま 駅の近く、大通りに面した郵便局が引っ越して空き家になったのです。

昭和初期風のアンティークな建物で、私たちは以前から気になっていた場所でした。第一次石油ショックの頃で、ビルを建てるという大家さんを、今時ビルを建てても、と説得して、そこを借りることができたのです。


今から思うと、そのことが、その後の私たちの人生にも、西荻の町のあり方にも、おおきく影響することになったのでした。

場所がよいので、仕事場だけじゃもったいないと言うことになりました。

お店をやろうよ、と。

でも、手作りアクセサリーの店なんて、当時は、結構、トレンドではあったのですが、私としては全く乗り気になれなかったのです。


どうだったら、ノれるか。

なんか、もっと新しい生き方につながるような、あたらしい価値観を発見してもらえるような、今まで見たことないようなそんな店だったら、やってもいいかな、と思いました。

自分の生き方と矛盾しないでお金を得る方法はないものか、とずっと探していたから、このお店から、私たちの価値観、オルタナティブな生き方などいろいろと発信できるんじゃないか。


で、結果的には、そういう店をやったのです。

なにを売ったかというと、人が見過ごすようなもの、見捨てられているようなものを、です。仕入れ先は専門の問屋ではなく、寂れた田舎の金物屋さんの売れ残りの水筒とか、町工場に転がっていた在庫品とか、問屋のデッドストックとか。お店に置くと、全く違う見え方になるのが快感でした。

作業着屋さんで仕入れた作業着や靴下をを染めてみたり、どこかの縁の下から見つけた古い印判のお皿や電気の傘を売ったり、今で言う雑貨屋(かな?)、アンティークやリサイクル品、手作りの洋服やバッグ、木のおもちゃ、自分たちが興味があるものはなんでも置いてある、ある意味セレクトショップだったのです。

最後っ頃は みんなに読んでほしい本とか、無農薬の野菜まで置いて、それがほびっと村の本屋や八百屋に繋がります。


東急ハンズがない頃だったけど、ハンズのように道具や材料を売って、ワークショップもやっていたので、お客もスタッフも渾然として、すごく楽しかったものです。

その頃、わたしもこういうどっちかというと無駄なものを売っていることに矛盾=消費社会に批判的でいるのに、お店でものを買わせている=を感じていたことがあります。詩人とか、せめて八百屋だったら、こういう矛盾を感じないですむだろうに、と。

でも、今はこういう無駄こそ大事だったのではないか、魅力だったのではないか、と思っています。

今の世の中は、きれいで効率的なことばかり優先されているので、なんだか入り込む余地がないかんじですもの。


お店の新聞を発行したり(73年当時の私たちの新聞に、すでに温暖化のことが書いてある)、近所の空き地で野外ロックコンサートやフリーマーケットやお祭り(これも、その後のいのちの祭りに繋がっています)もしました。

前例がなかったので、近所の人たちも面白がってくれ、協力的でした。

店の裏には台所やこども部屋(というには狭かったけど)もあって、自分たちのライフスタイルに合わせた働き方ができました。


ただし、小売店というのは、経済的にすごくきびしい、ということも身にしみました。在庫もいっぱいだったし、頭が痛かったことを思い出します。


経済的には、メーカーとして、卸しをしていた頃とは雲泥の差でした。楽しかったから、やって行けたようなものです。


その後、そこを拠点に、仲間に呼びかけて南口にほびっと村ができました。

村といっても4階建てのビルなのですが、このビルの持ち主から、私たちの店に「あなたたちだったら、楽しい場所にできるんじゃないか」と話が来たのです。

70年代のほびっと村は、1階が元ヒッピーたちの無農薬八百屋(山尾三省もここのメンバー)と私たちのジャムハウス、2階は、べ兵連などの運動系のほんやら洞、3階はオルタナティブな本屋と「やさしい革命」の編集室、いろんな自主講座やワークショップが目白押しのほびっと村学校で、当時のカウンターカルチャーのメッカの様相を呈し、毎日、大勢の興味深い人たちが出入りしていて刺激的だった。とても、70年代的でした。


ここの樹裸衣という女性たちの自主講座を母体に、まだまだ不自由な働き方しかできないでいる女性たちが 主体的に働ける場を実現するために 無農薬野菜や安全な食材をつかって食事を提供するレストラン「たべものや」をオープン。

食べ物を通じて、また自分たちの働き方を通じて、もう一つの考え方、生き方を伝えていきたかったのです。

でも、まず、一番大事にしたかったのは、自分たち自身の嘘をつかない生き方とナチュラルな関係性だったかも。


「たべものや」は今でいうワーカーズコレクティブという経営形態で、自分たちにとって違和感ない独自の運営をしていたのだけど、12年後のバブル時、やっぱりビルを建てる、という大家の要求で、閉店することになります。

ここでの経営は、また独特だったのですが、長くなりそうなので、又の機会に。


みんな、そろそろ他の分野で仕事をしたくなっていたので、場所を移して続けることはかんがえませんでした。


その後の数年は、今思うと、人生の夏休み。

アクセサリーを作って、お店に卸したり、クラフト展や個展をしたりでお金を稼ぎながら、アジアやアメリカをうろうろしたり、、、こういう自由な時間がたっぷりあると、たくさん友達ができるのですね。

クラフト関係やアーティストなど、お互い時間がある同士だと、お金がなくてもいろいろと楽しく遊べるんです。


<ボディクレイに関わって。>


しばらくして、粘土科学研究所に関わるようになるのですが、夏休み的生活を諦めたくなかったので、ちょっと手伝うくらいな気持ちで始めたのでした。


ただ、手抜きできないたちということもあるけれど、ねんどが面白くて、どんどんはまっていったのです。

それに私は 仕事するのが好きなんですね。きっと。

ねんどとわたし

 1994年、友人のスペースのオープニングパーティで現ボディクレイ社長の手塚さんが持ってきていたモンモリロナイトのジェルを見かけたのが、そもそもの 出会いでした。今とほとんど同じチアパックの容器に入ったモンモリロナイトのジェル。見た途端に惹きつけられたのですから、やはり縁があったというべき か。

 いわゆる化粧品というのはうさんくさくて信用できないと思っていたし、そういう化粧品に高いお金を出すこと自体、当時の私たちにはかっこ悪くてはずかしいことだったので、わたしのスキンケアは ずいぶんシンプルなものでした。

 西荻の「たべものや」時代は、台所の棚にゆずの種を日本酒につけた瓶が置いてあって、それを手や顔につけていましたし、ビワの葉や種もよく使っていまし た。沖縄のおみやげに貰った火山灰の洗い粉「白つばき」はみんなが気に入って 結局お店でも仕入れて売っていました。これは火山灰そのものですが、ボディクレイのねんども何億年か前は同じ火山灰ですから、私にはなじみのものだったの です。

 自分で手作りした簡単なローションやクリームをずっと使っていたのですが、50歳を過ぎて、さすがにもうちょっとなんとかしなきゃ、というタイミングでこのねんどに出会ったのは今から思うと幸運でした。


 食べ物だって、なんだって、まだ試したことない素材だったら、作ってみたい、という好奇心だけは旺盛な私。ねんど、というだけで魅惑的だったし、すぐに でもこれで作って試してみたい、とワクワクしたことを覚えています。わたしがこれほどピンときたのに、手塚さんはなんだか自信がなさそうでした。大丈夫、 これはきっと売れるわよ、とわたしは確信を持って言ったのでしたが・・・。


 当時の私は、12年間続けた「たべものや」=女たちでやっていた安全な食材のレストラン=が、89年、バブルで立ち退きになったので、以来、わたしはやっと手に 入れた自由な時間を、アクセサリーを作ったり、個展やクラフトフェア、旅行や演奏などしながら、人生の夏休みという感じで、貧乏だったけど、楽しくすごし ていた時期でした。

クラフトやアート関係の友達も大勢できたし、アジアやアメリカに長い旅をしたり、六ヶ所村の脱原発のお祭りにスタッフで参加した り、、、

この生活に終止符を打つのは後ろ髪引かれる思いだったけれど、手塚さんに誘われて、結局、週に二日だけ、とか言いながら、粘土科学研究所に通うこ とになり、その後、どっぷりとねんどにはまることになってしまったのでした。


 まず、捨てても土に帰る安全性に惹かれたのですが、使ってみると気持ちいいだけでなく、思いがけない効果(化粧品に対して期待していなかったせいもあり ますが)もあったし、スキンケアだけでなく、他にもいろいろと可能性を秘めていそうで、興味津々だったからでもあります。


 この粘土(モンモリロナイト)の研究を十数年もやっていたのは、今は亡くなった手塚さんのお父さんだったのですが、彼からマンツーマンで化学の授業を受 けながら、一緒にレシピを考えたり試作をしたり、もともと勉強好きな私は手塚お父さんの熱心な生徒になって、モンモリロナイトなんて聞いたこともなかった 未知の物質の不思議さに、どんどん引き込まれていったのでした。


 でも、当時は、パッケージの形態こそ今に近かったけれど、違う名前で産声を上げたばかりの状態で、販売方針やアイテムの構成、価格等々、何からなにまでやることが山積していたのです。

 おかげで 私はいろんな分野の能力を全部引っ張り出して何とかしなければならない羽目になったのだけど、今思うとそれは楽しい体験でした。


 販売や経理的なことに関しては お店での長い経験があったし、製品のレシピの検討や試作はお料理を作る面白さ、むずかしさとよく似ていて「たべものや」の経験が役立ちました。

何よりきび しい消費者としてのキャリアがあった。

それに、大昔は、これでもセツ モード セミナの第一期ゲリラ(我ながら懐かしい!今となっては殆どの方は知らないでしょうけれど)のイラストレーターとして活躍したこともあったので、パンフ レットのイラストやレイアウト、ラベルのデザインも、好きな分野の仕事でした。


 ボディクレイという名前に決めて、販売を始めたのは95年、ラベルも基本的には現在のものと同じですが、当時の粘土科学研究所は貧乏だったので、最初の頃はコピーしたラベルに、手書きで丸く色を付けていたものです(その後、同じデザインの印刷へ)。


 その頃、私がねんどの仕事をしていることを知ったデンマークの友人が、彼女が愛用しているかけら状のねんどをプレゼントしてくれたのです。

彼女はこのね んどだけで全身を洗えるので便利、これだけを持って世界中を旅してる、といっていました。

わたしも使ってみたら、色、形、使い心地共に大好きになって、ち びちび長いことかけて大切に使いました。

これが「ガスール」だったのですが、その後、何年も、これがどこで採れてどこで手にはいるのかはわからなかったの です。


 ヘナの輸入をしたいという友人に誘われて、企画をしていた頃(現在のナイアードという会社で)、アレッポの石けんのスタッフが旅行のお土産に粘土を買ってきてくれました。これってモロッコの粘土だったんだ!モロッコでは、昔からこのねんどを石けん代わりに使っていたのでした。


 念願のガスールは、ナイアードで輸入することになり、今はいろんなところで手に入ります。ちびちびと使っていた十年前を思い出すと不思議な感じです。


今は SORAとして、ボディクレイやガスールと関わっていますが、丁度、手が離れて一人歩きしている我が子をみてる感じ、ですね。