2020年11月7日土曜日

ボディクレイ開発時のはなし(2)

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当時は、パッケージの形態こそ今に近かったけれど、違う名前で産ごえを上げたばかりの状態でした。

まず、ボディクレイというネーミングをきめ、新しいアイテムの企画と構成、レシピを考えて試作、パッケージデザイン(だけじゃなく制作!)、パンフレット作成、原価計算に価格設定、販売方針、営業と、何からなにまでやることが山積していたのです。

おかげで 私はいろんな分野の能力を全部引っ張り出して何とかしなければならない羽目になったのだけど、今思うとその大変さゆえに楽しい思い出です。

販売や経営的なことに関しては お店での長い経験があったし、製品のレシピの検討や試作はお料理を作る面白さ、むずかしさとよく似ていて「たべものや」の経験が役立ちました。

何よりきびしい消費者としてのキャリアがあった。

それに、大昔は、セツ モード セミナの第一期ゲリラ(我ながら懐かしい!今となっては殆どの方は知らないでしょうけれど)で、 イラストレーターとして活躍したこともあったので、パンフレットのイラストやレイアウト、ラベルのデザインも、好きな分野の仕事でした。


ボディクレイという名前に決めて、販売を始めたのは95年です。

ラベルも基本的には現在のものと同じですが、当時の粘土科学研究所はまだ余裕がなかったので、最初の頃はコピーしたラベルに、手書きで丸く色を付けていたものです。(その後、同じデザインの印刷へ)。

最初の一色刷のパンフも私がやったのでしたねえ。文化祭のノリだったかも。


営業もはじめてやったけれど、このとき、今までは単に友達、とか知り合いだと思っていた人たちが、すぐにボディクレイを取り扱ってくれることになって、 びっくりしたことを覚えています。

自分では、それまで全く気がつかなかったけれど、それまで、私がやってきたことがある種 信用になっていたのですね。

エコ研の加藤さんが中高生へのメッセージで、「何となくでいいから仕事をしなさい。何十年かたつと、自分がやってきた足跡で、自分がどんな人間かというのがわかる」と話していますが、わたしも、ずっと自分の興味があることを夢中でやってきたら、20年、30年たってみると、私の後ろに 私の軌跡というか、どんな人って言うのができてきてるみたいだ、と最近はよく感じさせられます。



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