2020年11月6日金曜日

ボディクレイ開発時のはなし(1)

 10年くらい前にかいたものですが。

今回ボディクレイからZoomでお話することになって、読み直してみたものです。起業の記録でもあります。

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はじめてねんどの製品と出会ったのは、たしか1995年だったと思います。旧知の友人のパーティに、清拭剤などねんどの製品を持ってきている人がいて(それが、今の(株)ボディクレイ代表の手塚さん、ねんどおじさんです)、私は、それを一目見てなんだか、ピンと来るものがあったのでした。

透明なチアバックに入った白いねんどはとても魅力的にみえました。

今のねんどのパック、思えば、これって、私が最初にみたねんど製品でしたね。

清拭剤として、すでに製造されていたものを昭雄さんが友人達の集まりに持って来ていたのです。


 その頃はまだ、ボディクレイという名前ではなく、別の名前で産声を上げたばかりの状態だったようです。わくわくして使ってみると、使い心地もなかなかよかったし、朝の洗顔時に手に触れる肌の感じが 直に すべすべしっとりしてきてびっくりしました。


この白くて滑らかな形態と使い心地に すっかり魅了されたのがねんどとわたしとの長い付き合いのきっかけでした。


 わたしは、まだこども達が保育園に行ってる30代の初めに、西荻でアクセサリーの工房をはじめたのですが、その後、元郵便局の建物で 工房を兼ねたユ ニークな何でも屋「ジャムハウス」を経て、夫(当時の)や仲間とほびっと村(70年代のカウンターカルチャーの 拠点になった)をオープンし、その後、元のジャムハウスの場所で、女性達と自分たちのやり方で生き生き働ける場所としての「たべものや」—無農薬の食材を使い、玄米がおいしい店でしたーをみんなで12年間やってきて、、


 ねんどに出会ったのは、そのレストランをバブル時の立ち退きで閉店した後、やっと手に入れた自由な時間? 今思うと人生の夏休みみたいなーを楽しんでいた頃だったのです。

この時間を手放すのには、ちょっと決心がいったけれど、手塚さんに誘われて、結局、週に2日だけ、とか言いながら、粘土科学研究所に通うことになり、その後、どっぷりとねんどにはまることになってしまったのでした。


お肌の曲がり角はとっくに過ぎていたので、人並みにスキンケアは気になって、自分で作ったローションやクリームを使っていたのですが、いわゆる化粧品には不信感があって、全然買う気にはなれなかった。

ボディクレイも化粧品として販売されているのですが、私にとっては「ねんど」だから、魅力があったのです。

ねんどの捨てても土に帰る安全性に惹かれたからですが、使ってみると気持ちいいだけでなく、思いもかけない効果があるし、知れば知るほど奥が深くて、スキンケアだけでなく、他にもいろいろと可能性を秘めている不思議な鉱物であることがわかってきました。

この粘土(モンモリロナイト)の研究を十数年もやってきたのは、今は亡くなった化学者である手塚さんのお父さん、手塚煕氏でした。


彼からは当時わかっていた粘土のあらゆることを一から教えてもらいました。マンツーマンで化学の授業を受けながら、一緒にレシピを考えたり試作をしたり、もともと勉強好きな私は 手塚お父さんの熱心な生徒になって、モンモリロナイトなんて聞いたこともなかった未知の物質の不思議さに、どんどん引き込まれていったのでした。 思い起こすと本当に貴重な体験をさせていただきました。

今でもわからないことがあると彼に訊けたら、と思います。それに、ボディクレイがこんなにポピュラーになったことも見てもらいたかった。


 天然のモンモリロナイトは化学物質と比べて扱いにくい原料ですが、製造に関してはベテランの和代さん(手塚昭雄さんの妹さん)がいて安心でした。彼女は余人に代え難い技の持ち主なので、当時は彼女が倒れたら製造はどうなるの、と 時々不安になっていたものです。-------------------



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